Skip to main content

黒くなることで自由になれるのか

黒子の衣装に着替える──それは、観客であることの放棄であり、匿名性の受容でもある。参加者はこの「脱皮」の感覚をこう語った。

「黒くなったことで自由になれた気がしたんです…より表現力が増すというか」(参加者)

しかし、その自由は同時に不安も呼び起こす。

「黒子になると怖いなと思った…靴の音が会話のように聞こえて」(参加者)

可視性を失うことは、社会的な位置を一度リセットする行為でもある。身体が「見られなくなる」ことで、空間の力点が転換され、音や身体の微細な動きが増幅される。存在の重みだけが不在のなかで際立つ。

匿名性と暴力のあいだで

黒子としての匿名性は、攻守のベクトルを同時に孕む。参加者のひとりは、SNSの匿名性との類似を指摘した。

「名前を出さなければ何でも言っていいみたいなところが、SNS世界にはあるという恐ろしさもよく感じていて」(参加者)

自己の匿名性は、時に他者との関係を断絶する。接触はあたかも物質性を伴わない非現実の出来事となり、自己と他者を繋ぐはずのコミュニケーションは違った意味を持ち始める。個の枠組みが薄れたとき、自由は排他性と隣り合わせになる。

「黒子が増えていけば増えていくほど…本当は正しくないかもしれない世論みたいなのが生まれてきて、それが非常に恐ろしいなと思った」(参加者)

「見えない存在」が増殖するとき、正しさの定義は簡単に上書きされる。 黒衣は、匿名性の可能性と暴力性を同時に映し出す鏡となる。

パフォーマンスアートは問いを生むメディア

芦澤はいま目の前で行われた行為を、演劇でもダンスでもなく「パフォーマンスアート」と位置づける。その理由をこう語る。

「パフォーマンスアートはビジュアルアート……身体をツールとして、自分のステートメントをその表現方法によって伝える。でも、大体において直接的には伝えない。考えさせるスタイル」

ダダやフルクサス、オノ・ヨーコ、マリーナ・アブラモヴィッチの系譜にあるように、身体を通して社会に問いを投げかける本作では、観客が演者の役割を引き受け、演者が黒子として背後へ回る。構造は反転し、視点の境界線は揺らぎ続ける。

「この作品は最後の実際に話し合う部分が一番重要だと思っていて……皆様の意見を踏まえて自分も変わっていく」(芦澤)

パフォーマンスは上演で完結しない。観客の言葉が作品を更新し、社会の構造と連動しながら新たなバージョンへと移行していく。

クロゴとクロコ、役割の誤読

黒子という存在は、伝統の中で意味を変容させてきた。芦澤は語る。

「黒子(クロコ)は……誤った解釈で、もともとは黒後(クロゴ)なんですよ……もともとのアイデンティティが変えられて、それが一般には知られてしまっている」(芦澤)

原来、背後で支える存在を表す能・歌舞伎の舞台語であった「クロゴ」は、ポップカルチャーによって視覚的な記号としての「クロコ」として一般化した。

言葉の誤読は、役割の誤読へとつながる。そしてそのまま制度化され、習慣となり、社会の前提へと溶け込んでいく。参加者のひとりはこう語った。

「黒子じゃないのに質問ができない状態になっていることに対して……(自分は)まだ黒子かなと」(参加者)

可視性/不可視性は単なる舞台技法ではない。それは、現代社会における声のダイナミクスを決めてしまう構造そのものだ。例えばそれは、教室の中で感じる音のないほんの些細な圧力かもしれない。しかし、無意識によって身体化されたその「誤りの制度化」こそが、現代社会の役割理解の歪みを象徴するのではないだろうか。

見えないものを、どう見るか

黒くなることは、消えることではない。それは、世界から一度距離を取り、自分の輪郭を別の角度から見直す行為である。パフォーマンスが問いかけるのは、「見えない存在」を誰がつくり、誰が維持し、誰が身体化するのか──という社会の根源的デザインにほかならない。

芦澤の黒子は、私たちがふだん見過ごしている関係の構造を照らし出し、 「見えない自由」の可能性と危うさを、静かに、しかし確実に私たちへ投げ返してくる。

Leave a Reply