越境者が語る、越境と未来と共創について|パネルディスカッション
文理融合の研究と、アートやデザインなどの表現を実践する大学院、情報学環を中心とする東京大学、および「クリエイティビティとテクノロジーの力で、世界を感動で満たす。」を存在意義に掲げるソニーグループが連携し「越境的未来共創社会連携講座」(通称: Creative Futurists Initiative)をスタートさせました。同講座は社会を批判的に読み解き、アートとデザイン、そして工学のアプローチによって問題提起・課題解決を行う人材を育成することを目的としています。
2024年2月22日(木) に東京大学情報学環・福武ホールで開催された同講座の設立記念シンポジウムで、林香里(東京大学 理事・副学長)、山中俊治(東京大学 特別教授)、筧康明(東京大学 大学院情報学環教授)、北野宏明(ソニーグループ株式会社 執行役専務CTO 北野宏明)、戸村朝子(ソニーグループ株式会社 コーポレートテクノロジー戦略部門 コンテンツ技術&アライアンスグループ 統括部長)が、パネルディスカッションを実施しました。
(※) 記事中の所属・役職等は取材当時のもの
TEXT: Akihiko Mori
PHOTOGRAPH: Timothée Lambrecq
PRODUCTION: VOLOCITEE Inc.
論理と感覚を互いに濁らせず、共存させる
筧:越境的未来共創の土壌ということで、第2部のディスカッションを始めたいと思います。
山中先生が誰でも「デザインができる」と提唱されているように、この講座を通して誰でも越境ができる、誰でも共創ができるようになれたらと思っていたのですが、お2人の基調講演を聞いて、「かなりこれは難しい挑戦なんじゃないか」という印象になってきました。しかし、そこを何とか、越境や共創が多くの場所で起こるための場をどのように作っていけるかということを皆さんと一緒に考えていければいいなと思います。
第2部のパネルディスカッションですが、ここでは東京大学の理事・副学長、情報学環教授の林香里先生をお迎えしたいと思います。林先生は情報学環の教授で、2001年4月から東京大学の理事・副学長をされています。国際ダイバーシティ担当です。研究者としては、メディアジャーナリズムを専門とされていて、東京大学の中ではBeyond AI研究推進機構の、AIと社会、Beyond AIグローバルフォーラムプロジェクト、AI時代における真のジェンダー平等社会の実現と、マイノリティの権利保障のための規範倫理実践研究の創設ディレクターをされています。
林:はい。林香里と申します。今日はこのような栄えある場にお招きいただきましてありがとうございます。私は情報学環の教授もしておりますが、今は東京大学の理事・副学長で、どちらかというと大学の運営の方が忙しいのですが、元々は情報学環で教えておりますし、教えておりました。
簡単に申し上げますと、私が情報学環に入ったのは、情報学環の前身の前身の新聞研究所がちょうど社会情報研究所という名称になったときに、大学院生として入りました。それが1992年です。その後ですね。社会情報研究所というのも潰れまして、そして情報学環に吸収されまして、私はその中でジャーナリズム研究というのをしてきました。そういう観点から見ると、新聞やテレビというものが、今こうしたいろんなデジタル技術によって変容し、ほかにも3Dプリンターなども登場して、情報の表現形式はなかなかいろんなふうに展開してるんだなということを感慨深く拝見しておりました。
筧:今日はよろしくお願いします。続きまして先ほど基調講演してくださいました北野さん、山中先生、そしてソニーの戸村朝子(コーポレートテクノロジー戦略部門 コンテンツ技術&アライアンスグループ 統括部長)さんも参加していただきますのでお願いします。戸村さんのご紹介をしたいと思います。
戸村さんは先端技術によるコンテンツ開発、クリエイターと技術のコミュニティ育成サステナビリティ技術啓発などを推進して、文化庁のメディア芸術クリエイター育成事業アドバイザーや欧州委員会のS+T+ARTS PRIZEの審査員などを歴任されてこられました。本学の情報学環の客員研究員も務められていて、僕が長らくこの社会連携講座を立ち上げにあたり、ご相談し、一緒に準備してきてくださった方です。
戸村:筧先生ありがとうございます。この日を大変待ち望んでおりました。ソニーグループの戸村と申しますよろしくお願いします。この第2部は筧先生にもパネルとして登壇していただきたいので、私の方から司会をさせていただきます。筧先生と(のつきあい)は結構長く、筧先生が工学部の博士課程の頃お会いしていて、「メディアアートというのをやり始めてます」と言って、「こんな優秀な工学部の方がメディアアートを実践されるのか」と驚いたのがもう四半世紀前ぐらいの気がしてます。今日はこういったところでまた一緒に活動できることが嬉しいなと思います。
第2部越境的未来共創のための土壌ということで、先ほど本当に山中先生、北野さん、そして林さんからもある意味クロニクルのようなたくさんのお話が出てきました。「越境する勇気を君たちは持っているか」と投げかけているような気もいたしますが、ぜひこれからを担う学生の皆さん、また社会の皆さんに対してメッセージがあったように思います。
林先生の歴史観というか、ジャーナリズムというのはいつもいろんなものをハイライトすると思うんですね。山中先生や北野さんがされてきたことはある意味「ことを起こす」ことだと思うんですけれども、照らされて初めて認知されて、それが大きなダイナミクスになるという重要な役割があると思います。例えば、芸術、工学、科学にしても定義が揺らぐようなことが今まさに起きている最中だと思うのですが、ジャーナリズムの観点から見て、こういったことはどう扱っていけばいいのか。また、もしかしたら消化不良をみんなで起こしてる段階なのか、コメントをいただけたらと思っております。
林:はい。ちょっと難しい質問なのですが、「光を当てる」のがジャーナリズムだというのは確かにそうだと思います。北野さんと山中さんの話を聞いていて、やはりメディアがどこに光を当てるか、記者たちが自分の中に持っていないと、結局はそこから新しいアイディアも出てこないと思うんです。
私がいつもメディアやジャーナリズムをクリティカルに見るときに、同じところばかりに光を当てているから、何となくつまらなくなるんじゃないかと思っています。越境したところから見ると角度も変わるし、違うものが見えてきて、光が別のところから当たるし、新しい景色も見えてくる。先ほどの素晴らしいデザインや景色、例えば(北野さんの)最初の写真もすごいびっくりしたんですけれども、砂漠のイメージって固定されているのに、そういう越境の中から見える砂漠ってああなんだって、目が開かれる思いがしました。メディアやジャーナリズムには、社会に新たな発見を促す機能が必要なんじゃないかと思います。
戸村:ありがとうございます。山中先生はビジュアライゼーション。ある意味見たことがないものを形にする、妄想も期待も含めて、また美しさを伴うようなことで私達に未来を見せていただいてます。
お伺いしたいのは、科学者であることと、デザイナーであることは、かなり違うんだとおっしゃられました。よくある言説に、「アートとテクノロジーは出会いすぎ」というか。デザインもそうかもしれませんが、実際どうなのよ、っていう実務者の発言がまだまだ世の中には足りてないのかなと思います。お話の中でもいただきましたけれども、やはり実際に企業を通じた製品化も担われたり、私もCyclopsはもう本当にファンで、見に行きましたが、創造者どうしを一つの体に持ち、どうやって縫い合わせているのか、また縫い合わせずに表現に対して取り組んでるのか、そのあたりの少し解像度の高い話を伺えたらと思います。

山中:まず同居はできないですね。つまり、論理思考と感覚に浸るのを同時にやると、どっちも濁る。だから「今は、こっちだけ考えよう」と、いつも切り分けます。個人の中ではね。学生やエンジニアたちと、あるいはもの作りの人たちと話すときもそれは意識します。つまり、「これわくわくするでしょ、こういう気持ちに一緒になりたいと思いませんか?」っていう呼びかけと「いやそこはあと2mmないと強度が・・・」という議論をするときに、それらを混ぜないのはすごく大事だと思っています。それでも結構、瞬時に切り替える必要はあるんですけど、振り子っていうのかな。こう、5分後には違うこと言わなきゃいけないんだけど、でも同時には言えない。という感覚は自分の中にはあります。
戸村:ありがとうございます。北野さんは「Act Beyond Borders」ということで本当にボーダーを超えて生きて帰ってこれるのか、といったことを推進されておられますけれども、やはり、先をかなり見通しながら世の中をナビゲーションし、事を起こされているなというふうに思っています。また、先ほど研究者が集えるロボカップのような活動もありましたけれど、それを単独ではなく集う場、コミュニティといったことを築くということ。そこで新しい領域を質・量ともに出す、といったことをしてこられましたが、そこでどうして結果が出せているのか、描いた作戦なのか、やはり実践にポイントがあるのか、かなりインパクトのあることを続けておられるので、その成功の秘訣みたいなことがあればおうかがいできますか?
北野:結果でてるかわからないですよ。ロボカップって目標は「2050年にワールドカップチャンピオンにロボットで勝つ」だから、2050年なんで大きなムーブメントになってるけど。途中でKivaシステムからAmazonロボティクスが生まれているから、そこはインパクトを与えてることは間違いない。ただそれは、計画の一部ではあるんですよね。ロボカップの話だけでも結構いっちゃうんだけど、それはロボカップ始めたときに30年後から50年後(30年ぐらいから始めてプラス20年ぐらいで)どんなロボットやAIが世の中に一番インパクトを与えるか、といくつか考えて、その要素が全部入っていて、世界中の人にひと言で説明できることは何かということで「ロボカップ」になったんです。その中に物流というのがテーマで入ってるんですよ、なのでそれは結構予想したところに乗っかっているのでラッキーでもあると思う。
ただね、さっきの山中さんのお話と同じで、サイエンスをやっているときと、テクノロジーをやっているときって、頭のつかい方が全く違うんです。世の中では「科学技術」っていうふうに一言で言ってるけど、私は生物学者でもあるわけですね。生物学としての研究をやっているときの頭の使い方と、コンピュータサイエンスでプログラムを作っている、並列マシンを設計しているとか、ロボットのことを考えているときでは、頭の使い方が私は全く違います。これは一緒にできないです。正直言って。
例えば今週生物学やると、翌週はテクノロジーを入れないです。結構スイッチしてですね。何日かかけてやっぱりテクノロジー的にものを考えられて突き詰められるようになる。そのくらい違います。それで今度はロボカップやってるときはどちらとオーガナイザーなのでこれも違うんですよ。これをやってるときにテクノロジーもサイエンスもすぐには切り替えられないです、やっぱり。
山中:あれやってるときの北野さんはもう何か、戦略家だもんね。
北野:みんなをまとめていくために、どうするかを考えています。お金も必要なんで、どこからお金を取ってくるか、どういうメディア露出するか、って考えながらです。一方でピュアに生物のこととかAIのアルゴリズムみたいなのをやっているときはすごく違う。AIにしても、作って動くもののシステムを作るときって全然違う考え方じゃないですか。多分越境するってことは「違う考え方を知る」ってことなんですよ。それが多分重要で、同じ考え方でいろいろ見てもあんまり越境したことにはなっていなくて、同じ境界の中で違う風景を見ているだけで、「本当にそれを超えることにすごく価値があるのかな?」って気がします。
山中:北野さんが2050年にサッカーでロボットが人間に勝つという目標をかかげられたときに「すごいこと言うな」と思ったのは、それってそもそも、人間が負けたと認めるためには、ロボットがどう在らなきゃいけないんだろう、ということを考えるヒントになりますよね。
北野:そう、だから目標を達成するには、人間のトップチームが試合をすることに合意してくれないといけない。
山中:そうですよね、ロボットって表現だけだとサッカーボールをロボティクスにすることもできるわけで、そもそも試合にならなくなる。
北野:そうです。(人間のトップチームがロボットとの試合開催に)合意するには、人間のチームが試合を受けざるを得ない状況を作る。だけど、安全だっていうことが保障されないと危険だから(受けられない)っていうことになるじゃないですか。すごく安全で性能がすごく良いという、その2つを満たすということが、すごくハードルが高い。
山中:そうですよね、また囲碁と同じで外部と接続されているのが許されるかとか、お互いの連携がネットワークで繋がってるロボット11人と、人間11人が公平なのかと考えると、本当にロボットをどういう存在にするのか、そのものを考えさせられるプロジェクトだなと思ったので、そこはすごく感心しました。
北野:リモコンじゃなく、人型の完全自律型ロボットで、て「ワールドカップのチャンピオンに勝つんですよ」って言うと世界中どこ行ってもそれって、何をしたいのかがわかってもらえるじゃないですか。「おかしな人だな」とは思われるかもしれないけど、何したいかわかるでしょう。パワポいらないでしょ。それが重要で、例えばルイ・ヴィトンのスポンサーに会ったときも、もうね、アメリカスカップのイベントのVIPヨットの上なんですよ。シャンパン片手に説得しなきゃいけないんですよ。パワポ出してる暇なんかないんです。だから世の中で一番重要なプレゼンは、パワポは使えない。多分15秒くらいしか時間がない。
人文社会学から見た、テクノロジーを楽観する現代と悲観する近代
筧:ロボット開発や、林先生が専門にされているAI倫理はすごく面白い関係だなと思っていて、つまり、誰もが「そこに行こう」というゴールをいかに据えることができるのかということが、結構揺らぐこともあるのではないかとも思います。誰もが、「ここがゴールだ」と思ったことに対して、ある種のバイアスが含まれていたりもあります。それに対してそこを確認しながら進んでいくってことが一方で重要なのかなと思っています。
アーティストとサイエンティスト、アーティストとエンジニアの関係の中に、例えばジャーナリストがともにその道を進んでいくとしたら、どのように共創が可能か。個人の中に批評的精神を持ちうることができるのか、ちょっとこれまでのアート、テクノロジー、デザイン、エンジニアリング、といった枠組みの、もしかしたらその外側にあったのかもしれないジャーナリストの視点から、林先生は今日の議論をどのように聞かれたかに関心があるんですが、そのあたりいかがですか。あるいは人文社会学系研究からのアプローチとしてですね。AI倫理の観点からAI研究者といかに共存・協働可能かというようなあたりはいかがでしょうか。

林:そうですね、なかなか難しいですけども、私は元々はメディアや社会学が専門ですが、いろんなところで、理系の研究者、特に工学系の研究者の先生方とご一緒することがあるんです。
東京大学工学部はとても大きな学部です。毎年入学する学部生3000人中、約1000人は工学部の学生になる。工学部は、本学でそのぐらい大きく、主流なのです。そうした意味で、先生もたくさんいらっしゃる。私が工学系の先生方のお話を聞いていて思うのは、工学の先生方はご自分の開発していらっしゃるテクノロジーが「良いこと」だと確信をお持ちの先生がすごく多いんです。
他方で、私のような人文社会系の研究者っていうのは、人類は、特に近代、19世紀ぐらいからですかね。大変悪いことをした、大変間違ったことをした、という、非常に深い反省の中に生きているんです。ですから、自分のやっている研究さえも、これは何でやっているのか、正しい道なのだろうかということを常に反省的に見ながら、進んでいいのかさえもわからなくなってしまうようなところがあります。人文社会系の学生の博士論文とか、進捗状況がすごく遅いんですけど、それも少しシンパシーを持って考えればですね、そういう学問への姿勢がある。楽観的なテクノロジーへの感覚と、悲観的な近代の歴史を、私たちは21世紀においてどのように融合して越境的未来の共創をしていくかが問われている。そういう時代に立っているのかな、というふうに研究者としては思います。東京大学の運営をするときも、文理融合や越境は、流行のキーワードのように出てきますが、実際、どうやったらうまくいくんだろうというのは常に考えさせられます。
戸村:非常に面白いですね。第1部で田中東子先生が人文社会学は世の中に貢献できるのかという問いを出されましたけれども。そういったときこそ哲学や、これまでの過去の思想、先人が悩んできて出して、古典として残っているあたりが非常に大きな指針となるような気がしています。羅針盤として、人文・社会学というのは、私達を導いてくれる要素でもあるんじゃないかなと思いながら、今回の講座の混じり合う形をぜひ東京大学とソニーグループ、また学外のいろんな才能だったり、お考えを持つ皆さんとやれたらいいなと思いながら、林先生のお話を聞いてました。
山中先生にしても北野さんにしても1人の中にアーティストと科学者が住んでるというある意味レアなタイプなんですね。第1部でもソニーの住山さんからお話いただきましたけれども「集団的創造性」といったことがどうやって成り立つのかというところも、この講座で追いたいと思っているんです。これは科学者、技術者、芸術家、またデザイナー、あと人文社会学、哲学いろんな分野の方がいると思うんですが、そういった方々とお互いの領域をどうやってスイングバイしながら、前に進めるかというのがポイントかなと思ってるんです。1人の中に2人が住んでいるとなかなか難しいかもしれませんが、共創といっても、スイングバイし合う関係みたいなものを、どうやって作れるかというのを、もしよろしければご意見いただけたらと思います。
北野:やっぱり1人の中にそれがあることが、僕は必須だと思ってるんですよ。というのは、そうしないと、他の分野の人、越境した先の人の考え方とか世の中の見方がわからないんですよね。心のモデルというか、そういうのがわからなくて会話って多分成り立たない。「自分はこう思ってる」「この人はこういう世界観だ」とか、「こういう考えに違いない」っていうモデルがあるとか、「サイエンスはこれだけどテクノロジーの人はこういうふうに見てるだろうな」とか、「だからここのところがうまく連動するに違いない」とかっていうそういう予測であるとか、ここは多分わからない、ちょっと違うアプローチがくるよなってのがわからないとできないわけで。
ただ、全てに対してトップレベルというのはなかなか難しいんですよ。例えば僕はビエンナーレに招待アーティストとして呼ばれました。けど、あれは松井くんっていうすごい素晴らしいデザイナーがいて、一緒にやったからできたのであって、彼がいなかったらできないんですよ。だから僕はそういう見方というのを、そのプロセスでは学んではいるんだけど、1人ではできない。それはやっぱり、アーティストとして、デザイナーとしての見方を完全に僕ができているわけではないのと、デザインスキルなど、プロとしてやっていくスキルセットを僕は持ってないんですよ。
だからそこはわかる、その見方は分かるけれど、1人では多分できない。だからやっぱりチーム作る必要があるっていうことだと思う。なんかそこのバランスというか、それが多分すごく重要。それがないと越境して、遭難してしまう。あるいは越境して打ちのめされて、越境先を甘く見てるわけね。そこのプロフェッショナルのひとを。行くのはいいんだけど、打ちのめされちゃうわけです。
戸村:筧先生とこれまでにお話した中で役割がシフトするといいよねって言ってたじゃないですか。要するに役割が移っていくっていう時にアーティストになってもいいし、アーティストがプロデューサーになってもいい。相互作用が起きるようなチームができたら、それは前に進むんじゃないかなって話したことありましたよね。
筧:はい。さっきお話されたDispersive Organization。それぞれの役割で視点を共有していく、あるいはそれぞれ役割があるからいろんな見方が出てくるっていうのと、だんだんしみ込んでいくっていう部分、そこはすごく僕も実感していて、コラボレーションを深くしていくと職人さんやアーティストであると、「この局面で多分あの人だったらこう言うだろうな」というような、自分の中にその人が憑依する感覚というものを手に入れることができるようになってくるんですね。
自分自身のアーティスト性やデザイナー性が高まっていく、というのはもちろんあるんだけど、自分の中にいろんな「目」が蓄えられていくような。何かそれがあるからコラボレーションの醍醐味があるっていうところがある。「僕はアートわかりません」とか「デザイナーではないので」ってこういう方もいるんだけれど、やっぱりその人の中にはアーティスト性やデザイナー性は、エンジニアやサイエンティストであっても必ずあると思うんです。皆さんおっしゃったようにそこをうまく切り替えられるかとか、どれぐらいシャープに振れるかみたいなところのスキルがないだけで、多分多くの種、多くのほとんどの中にはアーティスト性やデザイン性というのがあって、そこを引き出していく、あるいはそこをフックに対話ができるようになっていく、っていうことはすごく重要だと思っています。そのサブセットのところにまず気がつくことがすごく重要だと思っているので、この中では人文・社会科学系の方も含めてご一緒することで、僕の中にもその目がもうちょっと増えていくんじゃないか、という期待があり、かなり無茶なコラボレーションを申し込んでいる、というところがあります。
北野:そこはいろいろ面白くて、たとえば山中先生とMorphのプロジェクトをやったときでも、ガチガチのロボットの研究者のチームだったんですよ。デザインなんかなかったです。だけど山中先生と一緒に進めるとだんだんデザインのことを言い始めたりして、気がつき始めたっていうのは、僕は横から見ててすごく面白かった。古田貴之くんのチームは、最初は彼らはあんまり気にしてなかったですよね、デザインとかは。でも最後はすごくディテールを自分たちで言い始めたりとか。ただ、お金のことは最後まで気にしなかったんで。
山中:それは僕のせいでもある。
戸村:ひとつネジが500円のやつですか?
北野:特殊なネジがあって、ネジ特注しちゃったんですよ。わかるんだけど、1個500円するし、たくさん使うんですよ。もうなんかね、どうすんだ予算ないぞ、みたいな。もう金策に走るわけです私はもう。
デザインの本質は越境し、行動することにある

戸村:それがねプロデューサーとしての役割だったかもしれないですね。チームがどうやったらうまくいくのか。多様性の観点なんですけど、もちろん大きな爆発的創造性も必要だと思うんですけど、軋轢を生むというところがあると思うんですよね。そこを何とかマネージしてきた結果、チームプレーが生まれるということがあるんですけど、軋轢のポジティブ変換みたいなところってなかなか、美談ばっかりであまり語られないことので、もしお話できる範囲で先生方にちょっと一言コメントいただけたら嬉しいなと思います。
山中:筧先生がさっきおっしゃった、一緒にいることで学び合う(という点)。北野さんもおっしゃったことだけど、それはとても大事な部分であるとは思っています。ビギナーズとかってよく言うんだけど、2回目からうまくいかなくなる理由は、1回目はすごく学ぶからですよね。つまり、「自分がまるで知らない領域がある」っていう(ことを教えてくれる)人と出会って一緒に仕事をしようとすると、とても勤勉になる。その瞬間にね。学生たちでも、芸術系の学生と理系の学生が一緒に仕事を始めると、片方は絵の描き方を教えるし、もう片方はプログラミングを教えるんだけど、やっぱりそれが自然にできていくことってのはすごく大事です。だから北野さんもおっしゃったように1人の人間の中にある必要はあるんだし、それはもう、そうなっていくからこそ素晴らしいんだけど、その前提として出会いっていうのは大事だなと思います。筧先生の研究室なんか見ててもそうですよね。
北野:軋轢がなかった話ってあまりないんですよ。余裕があるときは、収拾がつかなくなるくらい意見をぶつけ合うのもよいと思う。僕が内閣官房でコロナ対策やったときのことです。このときはものすごく意見の対立があったけど、軋轢が発生している間に対策が遅れるので、それは人命に関わるんです。だからそのときは、軋轢を抑えながら対応していた。許せるんだったらもうみんなにぶつけた方がいいと思いますよ。持っているよりも、ぶつけた方が僕はいいと思う。大変だけどうん。
筧:心強いけれど、大変だと思いました(笑)。林先生いかがですか? さっき田中東子先生の話の中で人文系、社会学系は1人で活動することが多いからみんなと活動しようと思うと実は慣れてないっていうような話もあったんですけど。
林:そうですね、そういう傾向はあるかなと思いますが、ただこのプロジェクトもそうですし、やはり最近、例えば論文執筆で、理系の方は9割ぐらいが共著の論文だと聞いてますし、人文社会系であっても、複雑で刻々と状況が動く現代社会の課題を考えるとき、1人きりで1冊の本を6年かけて書くというような、昔のやり方だけでは間に合わなくなっているかなと思います。軋轢の話が出たので付け加えますと、私はいま、軋轢っていう概念はたいへん重要だと思います。軋轢をどうやって乗り越えるかという問題意識が教育の中に入っていかないと、現状に対する批判的なの視点も育たないと思うんですね。身近な例ですと、東京大学の場合は学生の80%ぐらいが男性で、しかも日本人男性であるという、非常に均質な環境になっています。しかも半分以上は東京の出身、そして合格者の上位5校のうち4校が男子校とかですね。そうした均質的で、あるグループには非常に心地よい場になってしまっている。そうした環境がなぜ駄目なのかという根底には、今お話があったような、越境して向こうに行くと、コテンパンにやられてるとおっしゃってるんですけど、そうした経験から、新しい学びが必要で、新たな視界と境地が開けるっていう、そういう、テストがあるから勉強とかではなく、そうした経験をすることによって身につく知識っていうのを蓄えていかないと。どんな専門にも、人文社会系だろうがテクノロジーだろうが生物学だろうが、そういう軋轢の経験が必要なのかなと思います。
一言だけ質問なのですが、「デザインっていうのは、文系とか理系とかじゃないとすると、何系なのかな」っていうのをすごく考えるわけです。私なりに今日来る前に、なんで「デザイン」なのかなって考えました。すると、やっぱりいろいろと複雑な現代でたくさんの越境をする際、そこで持ってる武器というか、「デザインをする」っていうことは、変革の際に軋轢を強いる相手にも、合理性や理性だけではなく、エモーショナルなところに訴えかけたり、「いいな」って思わせること。こうした「ちょっと使いやすいな」とか、「綺麗だな」とか、「あ、そこだったのか」って思えるような、そうした接着剤や乗り越える勇気、まさに勇気ですね。そうしたものを与えてくれるような部分。そうした勇気のための全てのメソドロジーなのかなというような考えを持ってきたんですけど、これがどうなのかっていうのをデザインの専門家に聞いてみたいと思いました。
山中:広義のデザインは本質的にそれだと思います。デザインってどうしても、かっこいい、綺麗っていう話にいっちゃうんだけど、むしろデザインの本質は越境的統合。それぞれの学問って領域として完成させようとするので、それを使って何をするっていうことに対する指針は内包してないんですね。それぞれの学問自体にはね。だからこそ、複数の領域を同時に使って、何しようかっていうことを組み立てる、人と折衝する、他人を説得する。つまりビジョンを掲げるっていうアクトを起こすための様々な技法や方法論の集合体が、デザインだと思っています。スケッチや、美的感覚も重要なツールだから使いますが、それはたくさんあるツールの中の一つにすぎなくて、デザインの本質はむしろおっしゃる通り、どの学問をどのように使うか、どんな視点に立つかから始まり、お互いにコンバインしながら未来を組み立てていく作業そのものだと思います。
北野:物のデザインもありますが、ロボカップのデザインって、組織のデザインなんですよ。本質は。どういうふうにしたかっていうと、ロボカップやりますよね、ロボットでサッカーをやる。これを普通の大学でやると「なんでサッカーなんかさせて遊んでるんだ?」ということになる。ロボカップで一番考えたのは、一番加速するにはどうすればいいかということでした。知識がシェアされ、ノウハウがシェアされ、ソフトウェアや設計がシェアされることなんですよね。普通でやると、勝ち負けがあるからシェアしないんです。一般的には競技ではシェアはしないですよね。そういう原理だと進みは遅いんですよ。
はやくシェアされることを自然にビルトインする、っていうことを僕は考えました。(一般的には)大学でサッカーロボットをやってると「なんでそんなことやってる?」という話になります。でも、パフォーマンスが上がると、みんな「えっ」って思うわけです。「これいろいろ使えるね」と思う。いかに早くこのレベルまで持っていくかというのが参加者全員のプレッシャーなんですよ。そうすると、そこから運命共同体になるわけです。コンペで誰が勝つかは競争なんだけど、もっと外の世界というか、アカデミアとか、学部で周りの先生から言われるプレッシャーに対しては運命共同体なんですよ。その二重構造がロボカップにはあるんですね。だから、いろんなものがシェアされて、コンペティションが終わると翌日ワークショップが行われて、どういう技術を使ったかとかそういうのが全部発表されて、例えばソフトウェアとソースコードが公開されて翌年に参加できるのは、前の年のチャンピオンチームに勝ったソースコードを持ってるところじゃないと駄目なんですよね。みんな一気にそこまで行くから。このメカニズムを作れたのが、ロボカップのすごくうまくいったところです。ただ、ロボカップをやるだけだと、違うことをするときにそれ(と同じ仕組み)を使えるかっていうと、必ずしも使えないんですよ。なのでやっぱり、それごとにデザインしなきゃいけないっていうのがありましたね。だから、それは物とはちょっと違うタイプのデザインなんだけど、いろんなのがあると思いました。本質は同じところにあると思います。
山中:林先生がおっしゃった文明批評もすごく大事な指針の一つだと思うんです。そもそも人類が自然を観察して得た知識で、たとえば「ここに種を集めて巻いておくと食うのに困らなくなる」っていうことを思いついたときから環境破壊を始めてるわけですよね。つまり、本質的に人類っていうのは観察して得た知識で環境を改変して生き延びてきた生き物なので、だからそれを全面否定はできないですよ。それこそが人間っていうものの存在価値でしょうとも言えるので。だから環境改変という行為を破壊じゃなくさせるための様々な知恵が、デザインだと僕は思ってるし、だからよりましな破壊の仕方を考えることがデザイナーだと思っている。やはりそういう観点ってすごく大事だとは思っていて、それはやっぱり人文系の人たちと話してて学んだことのような気がしています。
筧:ありがとうございます。時間がやってきてしまいまして、パネルディスカッションをそろそろ閉めないといけません。最後、僕からいろんな今日示唆をいただき、課題、希望いろんなものをいただいたんですけど、越境的未来共創の土壌ということでこれからこの講座を具体的に動かしていくというところでぜひ次の機会には、成果、それもゴールなのかプロセスなのか、いろんな形でそのもがき苦しむところをまた共有したいんですけど、アドバイスというか何か期待というか、最後先生方からコメントいただけたらなと思います。山中先生から。
山中:すごくこの場も楽しかったし、第一部もすごくわくわくする議論でした。越境的未来共創っていうこと自体を、ずっと自分はやってきたような気がするんだけど、最初始めた頃はすごい孤独だったんです。正直に言うと。北野さんとロボット作り始めたときも「どこ行っちゃうの山中さん」って言われたことがある。そういうことがポジティブなこととして、みんなで越境的未来を作ろうねって思える場が、確実に育ってきていること自体を僕はとても嬉しく思っています。
林:私はデザイナーでもなければ、テクノロジーなども勉強しているわけではないのですが、今日のシンポジウムで、学んだこと、そして期待することは、やはり越境への意欲やエネルギーというものは、多様性という価値への尊敬からしか生まれない。そして、このプロジェクトは多様性が価値として考えられているなっていうことにすごく勇気づけられるんですね。もちろん、多様性っていうのが倫理として、例えばいろんな人が参加をして、女性や男性、障害持った人が、グループになって、全員を包摂するという倫理的な部分はあると思うんですね。それプラス、いろんな人がたくさん集まってそしていろんな知恵を出し合って、あるいは越境して違う観点からものごとを見ることや、人と違うことをするって面白いことだとか、いいことだという価値としての評価がいっぱい詰まってる。そういうみなさんの試みを見てとても勇気づけられました。期待しております。
北野:今のお話をお伺いしてて思い出すのは、ビエンナーレや建築など他にもいろいろデザイン的なことやプロジェクトをやってるんですけど、そのときにワークショップがあって呼ばれて話していたんです。「ヴェネツィアやMoMAで有名なアーティストの方で、最近サイエンスにも興味持たれてます」とか紹介されて頭抱えたときがあって。でもね、またそういうふうになってみたいなとか思います。別に僕に現在自由がないわけじゃないんだけど、いろいろな発言がソニーグループという企業の立場ととらえられてしまう可能性があるので、そこは完全に自由というわけでもない。やっぱり大学とか研究でやってる方って自由がすごくあるというところが僕はうらやましいとも思います。やっぱ遭難してみたらいいと思いますよ。そうするとやっぱりわかるし、人間って頭の中で考えて気がつかないっていう、すごくクリエイティブなところもあるのだけれど、その限界もあるってことに、何かそこにモデストとなってる、そこに対してすごく謙虚になってないといけないと思うんですよね。本当の遭難は命に関わるのでそれはちょっと注意したがいいですけど、何かそういう概念的なところとかいろんな行動で、分野横断しての遭難というのは何回かしたほうがいいんじゃないかなと思いますので、がんばって、遭難してください。
戸村:ありがとうございます。ずっとお話していただきたいですけれども,、お時間になってしまいました。越境というのは目的ではなくて運動体だと思うんですね。だからそこで目指すものはこの講座もどうなるか、予測をしないでスタートしたということで、自分を固定しないことがすごく大きなメッセージだったと思います。何になってもいい。だから自分の中を見つめながらいろんな人たちとも関わりながら等身大の自分を発展させていくといういうことが、それぞれができることだったりするかなと思います。また、見えない価値があればそれを照らし、見えない価値がまた存在しなければそれを築く。そういった自由度がある講座になるといいなと思っています。(今日のシンポジウムは)これから3年のキックオフになると思います。またこの講座自体も実は東大の学生さんと一緒に作ってます。学生の皆さん、また先生方、ソニーの社員、また学外のいろんな有識者、才能ある方、アイディアある方と問題意識を一緒にする方々とともに作っていきたいと思っています。今日は林先生山中先生、また北野さん、筧先生、白熱した議論をありがとうございました。また続きをどこかでできればと思います。

(左から)筧 康明、山中 俊治、林 香里、北野 宏明、戸村 朝子