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グレゴリー・ベイトソンの「カニの観察」の授業

中村寛(以下、中村):まず、導入の体験として、観察に主眼を置くために「私たちは何をどのように見ているのか」という素朴な問いかけから始めてみたいと思います。そもそも「見る」というのはどういう経験なのかについても、後から振り返りたいと思います。フィールドの往路・復路があるとするならば、復路を疑似体験するというのが、これからやってみたいチャレンジです。この復路は「人類学者はフィールドでの経験をどのように振り返るのだろうか」という問いにも置き換えることができるかなと思います。裏に隠れたチャレンジとしては、「学際」や「越境」がこのCFDのテーマだと思うので、ディシプリンやバックグラウンドを超えた協業を、チーム内で擬似的に体験してみようというのが本日のワークの趣旨です。

「みる」というのは漢字で書くとたくさんのボキャブラリーが出てくると思います。観察の「観る」、診断の「診る」、視察の「視る」、看取る・看護の「看る」とか。英語でもそうですね。see, look, watch, observe, witness…それぞれ少しずつニュアンスが違うと思います。諸説あるかもしれませんけれども、これらの違いはおそらく見る側と見られる側の間の距離や関係の違いを表してるんだろうなと思うんですね。それを、様々な振れ幅で見てみたいと思います。

グレゴリー・ベイトソンを簡単に紹介したいと思います。イギリスに生まれ、アメリカで活動した人類学者で、1904年生まれで1980年に亡くなっています。この人はルーツが変わっていて、お父様も生物学者だったんですけれども、自然科学で学位を取った上で、人類学に進路変更しました。「知の舞踏家」とも称されていて、コンピューターサイエンスが発達する時代を背景に、サイバネティックスについての理論の提唱者になったり、ダブルバインドセオリーやメタコミュニケーションについて書いたかと思えば、何を思ったのか、一年間、水槽でタコを飼って観察したり、バリでトランスダンスのようなものをビデオで撮影して研究したりと、領域が非常に横断的で、まるで「一人学際」をやっていたような感じなんですね。幅広く面白い活動をしていたがゆえに、定職を持つことが難しかったそうで、色々なところで非常勤をやったり、助成金を頼りにして研究をしていきます。

単著もあまり書いていなくて、この『精神の生態学』という本も論文集なんです。この本は様々なベイトソンの講演が集まっていておすすめなのですが、中でも1950年代にやっていた授業が非常に面白いので、それを今回披露していきたいと思います。

ベイトソンは、二つの全く異なる環境で奇天烈な授業をしていました。一つは美大生へ、もう一つは医学生へ向けた授業です。学期が始まってしばらくすると、必ず「ベイトソンは一体何が言いたいんだ?」というようなことが噂されたらしいですね。なぜかというと、試験に「サクラメント(聖跡・聖体)とは何か」「エントロピーとは何か」「遊びとは何か」といった問いを盛り込むんですね。教育戦略としてこれは失敗だったとベイトソン自身も言っていて、というのもクラス全員が黙り込んでしまった、と後述されています。それはそうだと思うんですけれども、彼はそれが重要だと本気で思っていたんです。

他にはこんな授業もやっていました。苦手なほうれん草を幼い子供が食べられるようになるために、ご褒美としてアイスクリームを与える母親がいます。この子供が「 a. ほうれん草を好きになるか嫌いになるか」「 b. アイスクリームを好きになるか嫌いになるか」「 c. 母親が好きになるか嫌いになるか」これらを知るためには、どんな情報が必要なのかを、3週間くらいかけて学生たちに議論させるんです。すごいと思いませんか? 3週間ずっとこれを考えるんですよ。すると、母親と子供はどういう関係だったのかとか、兄弟はいるのかどうか、そもそもこの家庭環境はどのようなものなのかとか、色々なことが議論になっていって、全部洗いざらい書き出していきます。最終的にはというと、これらを知るために知らなければいけない情報は、全てコンテクストに関わる情報である、ということに結論づけていくんですね。最初からこの答えを言ってしまうのではなく、実際に考えてみた結果、自分たちで文脈に関わる情報が必要だということに結論づける。このプロセスが非常に重要なんです。

これはベイトソンの教育論でもある「二次学習」と呼ばれるものです。教育の一番の目的は、学ぶことではなく、学ぶということを学ぶことである、ということです。自転車の乗り方に置き換えてみると、自転車の乗り方に関する見事なレクチャーを一年間聞いても、自転車は乗れるようにならないですよね。ベイトソンは、身体で乗り方を覚えるのと同じようなことを、思考実験の中でも提供していたのだと思います。この類似例にもっと奇天烈な授業があり、それを今から披露したいなと思います。

何かというと、1950年代の美術大学で行われたものですね。当時のコンテクストも少しだけ紹介しておくと、40年代から60年代にかけてというのは、ヒッピーのムーブメントが起こる手前で、「ビート・ジェネレーション*」と呼ばれる人たちが、若者たちにとって大きなインパクトを持っていました。40-50年代はアメリカのアーティストたちがアイデンティティ・クライシスで新しい表現を生もうとしていて、たとえばジャクソン・ポロックらは先住民アートに注目したりして、抽象表現主義と称されるムーヴメントが台頭していく時期です。音楽ではビバップが生まれ、文学でもジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』やアレン・ギンズバーグの即興詩などが文化運動として広まり、アーティストたちに影響を与えていました。その状況を思い描いてもらえると、ベイトソンの授業の内容がより面白くなっていくと思います。

*1940年代終盤から1960年代にかけて人気を博し、保守的な体制や物質文明などに異を唱え、戦後のアメリカ文化と政治に大きな影響を与えた文学運動・ビート運動に関わった世代。

そのビート・ジェネレーションに影響を受けた人たちというのは、反権威主義なんです。アメリカが築き上げてきたものや自分たちの親世代の価値観に対して、ことごとく歯向かおうという意識ですね。一つは人種差別への反抗で、ビート・ジェネレーションはほとんどが白人の若者の集まりなんだけれども、好んでビバップを聞き、当時はタブー視されていた人種を超えた性愛を奨励していくようなカルチャーが生まれていました。

もう一つの反抗先というのは、科学主義です。当時は人類学も科学のカテゴリーの中に入れられていたので、当時のベイトソンはアンチの雰囲気を感じ取りながら、考えに考えて初日の人類学の授業を迎えたのではないかと思います。そこでベイトソンは、紙袋を二つ持っていき、いきなりそこから茹でたカニを取り出すんです。そして、一つの問いかけをします。「このカニをよく観察してください。観察のみです。触ってはいけません。観察からのみ、これが地球上の生命の死骸であるということを証明してみてください」と言うんです。でも言われた方は、ポカーンとしてしまいますよね。しかし、ベイトソンは黙って、それ以上のことは何も言わないんです。最初は歯向かう気満々だった学生たちも肩すかしをくらって、仕方がないのでみんな議論を始めるんですね(このあたりは私の想像で補っています(笑))。戸惑いながらも、それぞれに意見を出していきます。

この先のエピソードも面白いのですが、ここで、実際にみなさんにも体験してもらおうと思います。本当は、実際に茹でたカニを持ってきたかったのですが、なかなか準備できないので、画像で3つのカニのサンプルを持ってきました。ズワイガニの写真、サワガニの写真、そして最後にカニのイラストです。問いかけは「このカニをよく観察してください。観察からのみ、これが地球上の生命の死骸だということを証明してください」です。

今から10分間で、まず一人一匹のカニを紙に描いてください。その上で、チームで集まった3、4つのカニを比較して、よく観察してください。そして、地球上の生命の死骸だということを証明してください。いきなり証明するのは難しいと思うので、まずはカニを描き、観察した内容を思いつく限り全部書き出してみてください。そこからチーム内で観察内容を出し合って、議論してください。オンラインの方も、画像を見ながら自分の紙にカニを書いて観察してみてください。

参加者:ネットで調べたり、百科事典を見たりしても良いですか?

中村:調べずに、この写真の観察のみにしてください。既に自分の中にインプットされた経験や情報は、総動員してもらっても大丈夫です。

少し時間が経ったので、ヒントを出しますね。ベイトソンも議論の最中に、あるヒントを一つだけ与えて思考転換させました。「あなたが火星人だと想定します。火星で生活したら、ある日突然これが降ってくる。これは一体何なのか、という議論の末、どうやら地球上の生命の死骸だと結論づけられる。それは、どうやって?」このヒントのポイントは、一旦地球の外に出てみるということです。外に出る意味を考えながら観察してみると良いかもしれません。生命だという推論は何によって可能になるのかを考えた後に、死骸である証明をする、というように一つずつ証明してみてください。

具象と抽象の往復から見出す質的な比較の重要性

まだ盛り上がっているところですが、まずはみなさんにいくつか観察内容をシェアしてもらおうかなと思います。最初は素朴で単純なところからで良いです。

【教室から挙がった観察】

  • 湯気が出ている
  • 動いていない
  • テーブルの上に乗るぐらいのサイズである(他のものとの大きさの比較)
  • 特殊な匂いがする
  • 足(のようなもの)が十本ある
  • 目のようなものがある

では、生命の証明に使えそうな観察には何がありますか?

  • 左右対称である

ありがとうございます。第1のポイントは「左右対称」です。この左右対称である、という観察が出てきたときに、ベイトソンは絶賛したんですね。匂い、湯気、足や目のようなものがある、というのが単体の観察であるのに対して、左右対称というのは一段レイヤーの異なる観察です。単純ですが、これを見ながら導いていくことがすごく重要だと思います。

なぜレイヤーが異なるかというと、パターンを読み込んでいないとできない観察だからです。目があるというのは、目という概念を知らないとできないという点もありますが、その個体自体に書き込まれている情報ですよね。しかし、左右対称というパターンを発見するためには、個別の特徴を離れて全体を見渡し、他の個体と比較しなければなりません。私たちも生命だから、生命が何たるかということをなんとなく知っています。他の生命も左右対称だという概念を使い、パターンを切り取るのです。そうして、さっきまでベイトソンに反抗的だった美大生たちは、左右対称という意見に盛り上がります。しかし、同じ学生の立場の人から、その観察に対して反論が出るんです。どういう反論だったのか、予想がつく人はいますか? 

参加者:左右のハサミの大きさが違う?

中村:はい。写真のチョイスに気がついていただいて素晴らしいですね。「左右の大きさは違うじゃん」という意見が挙がるんですね。これは極端な例ですけれども、ズワイガニのサンプルに戻っても、よく見ると左右のハサミの大きさが異なりますよね。長さもどうも違うようです。生徒のみんなは基本的にデッサンなどの美のトレーニングを受けている人たちなので、そうだった、大きさと長さが違うじゃん、と盛り上がっていた場が萎みます。

私たちの手も、厳密に言うと左右の大きさが少し違います。足の長さも、長年生きているとどんどん変わるとか、完全に左右対称の顔の人はいないなど、議論が盛り上がるわけですね。鏡に映った自分の顔と写真に写った顔は全然違うように、これは生命の証明に使えないとなってくるんです。

この先がさらに面白いんです。この反論に対して、美大生の中から再反論が出ます。それが一体何なのか、わかる方はいらっしゃいますか?

参加者:構造や機能に着目すれば、質的な差はないのではないでしょうか。

中村:素晴らしいですね。その通りです。クイックに解答が出ましたね。大きさと長さを比べたら左右対称とは言えないかもしれないけれど、それに対する再反論として、関節の付き方のパターンは左右対称だから、そのパターンを形成している節の結び合わせのあり方は、私たちの指の関節の出方や肩から肘への接続などのパターンにも通ずるように、質的に左右対称だと言っていいのではないだろうかという意見が出たんですね。これに対し、ベイトソンは大きな賞賛の拍手を送りました。さすがは美を見抜くトレーニングを受けてきた人たちである、と褒めちぎっています。

なぜ褒めたのかというと、この授業内で学生たちは思考実験をしていたからです。ある単体を観察しながら、自分たちが見聞きして経験してきた様々な生命と比較していますよね。学問というのは、基本的に比較の上で成り立ちます。比較という営みにおいては、大きさや長さのような量的なものではなく、パターンのような質的なものの方が重要性が高いということに、観察を通じて気がついていったことを大絶賛しているんです。

これも、授業の最初から思考実験のプロセスを開示して、比較における質的なものの重要性の高さを種明かししてしまったら台無しなんですね。何も学べないに等しいんです。手足を動かして観察を書き出しながら、それに気がついていくということを、情報が制限されている50年代のビート・ジェネレーションの美大生たちが体験したので、反応が大きかったんです。

同時に、いかに私たちの日常の中に量的な比較の方が多いのかということも分かります。量的なものの方が、表計算やグラフで増減を比較するなど、分かりやすく簡単なので、私たちはそちらに意識を引っ張られてしまいます。それに対して、質的な比較の困難さと重要性の高さに気がつくと思うんです。

カニという生命観察の応用編としては、例えば社会学の領域ならば、「統計を扱う中で、どうすれば質的な比較へ進めることができるのだろうか?」という問いに置き換えることもできると思います。簡単な例を挙げると、1960年の東京都内における犯罪件数と、2024年の同じく東京都内における犯罪件数を比べても、何の比較にもなりませんよね。では、犯罪率だとどうでしょうか。人口比に対する犯罪件数で見ても、どちらが危険で、どちらが安全なのかはやはり分からないです。

そこを質的に見極めていくと、量的な比較には、当時の犯罪を構成していた要素は何なのかというコンテクストに関する情報が抜け落ちていることが明らかになります。例えば、1960年に16歳の少年が闇市の面影を残す貧困地区でパンを万引きしたとして、それは明日の食事に困っていたからなのか、どうなのか。一方で、2024年の裕福層に所属する18歳の青年が、暇で仕方なく刺激がほしくてコンピューターを盗んだという万引きが、同じ「万引き」として報告されていたとしたら? その内実は、質的には全く異なるものですよね。だから、コンテクストの比較までしないと、本当は比べられないものだと思います。この2つを比べようと思ったら、不可能ではないけれど、相当大変ですよ。そういうものに質的比較を応用していくということの重要性と、いかに量的比較に入れ込むことができるかを考えるヒントが、この点からも見えてくると思います。

つまり、目の前にあるものの観察から離れてみないと、比較はできないということですね。今後、参加者のみなさんの中にはフィールドリサーチへ行く人もいると思うんですけれど、よりたくさんの写真を残した方が良いと思います。大体、写真はポイントを見て満足してしまうものですが、そこに何が写り込んでいるのかを観察しないと意味が損なわれるように思います。フィールドノートの記録においても、膨大な量の情報から、質的なパターンを見直して比較していくというのが、フィールドリサーチにおけるリフレクションの部分です。情報そのものから離れて考えてみるということです。

他にもベイトソンの論考の中では、個別具体と一般抽象を往復運動するような思考の展開があります。それと、柔らかく、適当に考えるフェーズと、厳密に考えてみるというフェーズを何度も行き来するんですね。そういう意味では、非常に「遊び」のある思考になっています。常に厳密に考えていてはダメなんですね。揺さぶりをかけるような形で、思考を往復運動させていくというのが、ベイトソンが試みたことです。

観察という体験を通じて、考えるというのはまさにこういうことだと身をもって覚えてもらうことこそが、おそらくベイトソンがやらせたかったことだと思います。幼い少年少女が自転車の乗り方を覚えるようにですね。

ちなみに、ベイトソンが紙袋を二つ持ってきたと言いましたが、カニではない方のもう一つの紙袋には、何が入っていたと思いますか? 左右対称ではなく、生命あるいは有機物に多く見られる構造体を持つものです。正解は、渦巻きの構造の巻貝です。巻貝の貝殻で、螺旋のパターンを示したかったんだと思います。

前提条件を取り払って問いを連鎖させる

この後やろうと思っている応用編のワークは、グループでこの教室を観察するということです。教室内のどこでも良いので、どこかにフォーカスを当てながら、よく観察してみてください。5分時間をとりますので、それぞれに切り出した部分を、まずは絵に描いてみてください。室内を移動しても、どんな風に切り取ってもらっても構わないですし、すごい奇妙な角度から描いても良いです。ただし、見えるものだけを描いてくださいね。

では、どんなものが描かれていて、そこからどんな問いが出て、何を考えたかを教えてください。

参加者:私たちのチームは、みんな上ばかり見ていました。エアコンの吹き出し口が4口あって、排気口もあります。4分の1区画になっていて、蛍光灯もそうです。4つに分かれた時に、均等に空調が効くようになっています。それに対して、プロジェクターは2つで、ルーターは1つしかありません。だから、部屋を半分に区切った時にはプロジェクターを使うような授業をやるし、4つに分けたときは使わない授業をやるのではないか。そしてこちら側のプロジェクターをよく見ると、Webカメラの電源プラグが抜かれているので、これは普段はあまり使われていないんだろう、など、この部屋の使い方を色々考えてみました。

参加者:うちのグループは、4人中2人が建物、2人が人の絵を描いていました。建物の動かないところと、机の俯瞰と、今日のファッションコーディネートと、オーディエンスの動きを描いている人がいました。建物の動かないところとコーディネートの共通点はスタティックなところ、机の俯瞰と人の動きは、時事刻々と表情が変わるというところで、4つの視点がうまくマトリクス状に当てはまったのではないかと思いました。

中村:人が出てくるというのがこのグループの特徴ですね。動きのあるものとそうではないものの観察が一緒に出てくるのが面白いポイントです。

参加者:実際に見たものをそのままのサイズで描くのではなくて、紙に収まるようなサイズにしたり、写実主義でデフォルメせずに遠近法を意識して描いたりしました。グループの4人とも、ここに座ったまま見たものを描いたので、割とみんな近いものを描いていました。動きがあるとか模様があるとか、目で見て何かしらの動きを連想するようなものである点も共通していました。

中村:本当は時間があれば外に出かけてフィールドワークしてもらい、持ち帰ってきた写真をもとに考えるのが一番良いのですが、今日は教室内であまり動けない中で、身近にあるものを観察してもらいました。写真を撮るよりもスケッチをする方が、ちゃんと見ないと特徴を捉えられないですよね。

観察内容の中に「動き」というキーワードが出てきましたが、今見ている瞬間と切り取った瞬間には動いていないんだけれども「動きが想像できるかどうか」というのは、問いを切り出していくときのポイントだと思います。ある空間やある道具とともに、人はどう動くのだろうか? この道具自体はどう動くのだろうか? というような問いの切り出し方は、フィールドワークの観察にそのまま当てはめることができるのではないでしょうか。

他にも、カニの観察と同じで、まず「これは一体何なのか」というエントリーポイントから考え始めるということも重要です。プロジェクターにしろ、人にしろ、既に名付けてしまってるんですけれども、そのカテゴリーを取り払って「これは一体何なのか」という問いかけを、自明のものに対して何度もしつこくしていく。

我々のフィールドワークでも、見慣れているものもそうでないものも、しつこいくらいに前提条件を全部外して観察します。これは、デザインのプロセスにおける「リフレーミング」に近いですね。例えば、遊び道具のデザインをするときに、おもちゃという前提を一度外して、遊ぶというのは一体そもそも何なんだろうか? というようなリフレームをしていくんです。もういいよというくらい突き詰めるのが、非常に重要なエントリーポイントになります。

そして、その過程における“WHY”と“HOW”という問いかけは非常に有効です。例えば、ベイトソンが書き残している内容に、カニの観察ではパターンのつき方に成長のプロセスが見て取れる、とあります。今は止まって動いていないんだけれども、こういうふうに成長しないとこの形は物理的に作れない。その成長のパターンが確認できるかどうかが生命の一つの判断基準になると述べているんです。ということは、「これは何なのか?」という問いだけでは足りなくて「どのようにしてこれはこういうふうになっているのか?」というように問わないといけないんです。これは環境にも当てはめることができますし、人の所作・動作に当てはめることもできますよね。色々な方向に思考の揺さぶりをかけることができるのではないかと思います。

“WHY“という問いかけには一つの答えがあるわけではないので、一問一答式の答えで終わらせないということも重要です。質的な問いに対して、質的に転換して応答を作っていくというのは、算数の公式のような問いの立て方ではないので、さまざまな角度からの問いかけに、さまざまな角度からの答えが出てきます。応答を作ることに重要性があって、正解を出すこと自体には重要性がないんです。

そのため、質的な問題、まさに痛みの問題などが当てはまりますが、解消はできないですし、解消できるという思い込みの方が、実は危うい発想につながってしまいます。そうではない形で、応答を作り出していかなければいけない。これは結構しんどい作業でもあります。なぜならば、終わりが見えないからです。開かれたオープンダイアログのような応答の連鎖なんです。だからみんな手放してしまって、量的な答えで安心しようとしてしまうのですが、本気で何か新しいものを作り出そうと思っている時には、おそらく質的な応答の連鎖を作り出していく方がはるかに生産的と言えるのではないかと思います。

デザインは仕組みや仕掛けをつくること

では質疑応答に移りたいと思います。

参加者:とても面白かったです。私の専門はアナログ電子回路で、所属している部署では、入社2, 3年目くらいの人に向けて、講座をやっています。そこで思っているのが、まさに今日出たような話で、いくら水泳の教科書を読んでも絶対泳げるようにはならないよねというところで、最初は一問一答になってしまっていたところを、実際にアナログ電子回路を色々と触って、もっとぐちゃぐちゃとした会話になるようにどうやって仕上げていくかにいつも苦労していました。

その時は形式知を伝えるのではなく、暗黙知を受け取ってほしいという説明をしていたんですけれども、今日のレクチャーの言葉で言うならば、私がやってもらいたかったことはアナログ電子回路の世界をフィールドワークしに行ってもらうということだったんだと気づきました。

質問は2点あります。

1つ目は「デザインには介入がつきもの」というところの、デザインの定義がわからないので、知りたいです。

2つ目は、今日を含むCFDの目的である、越境して、デザイナーと人類学者が一緒に何かをするというところにどういうつながりがあるのかをまだ理解しきれていないので、教えていただきたいと思いました。

中村:ありがとうございます。すごく丁寧に聞いていただいたことが分かりました。

一つ目の質問からいくと、デザインの定義というのは相当難しいと思うんですけれども、ひとつ定義の仕方は、「仕組み」や「仕掛け」と言い換えても良いのではと考えています。色・形を超えているというのは、デザインをやっている方からすると当たり前になってきていると思うのですが、ではそれを定義するならば、一つの仕方は、仕組み、ないしは仕掛けのようなものではないかと思います。

先ほどの、デザインでは介入が前提になっているという話については、デザインとは主に、20世紀の産業界の発達とともにあったので、基本的にはクライアントワークですよね。デザイナー自身だけで満足するという表現ではなくて、仕組みや仕掛けをつくって課題解決のような変化を求めて依頼されて成り立っている仕事です。そういう意味での現状への「介入」です。そして、作ったものはある種、未来永劫、人を変えてしまう可能性もあります。一例としてiPhoneを挙げると、もはや今ではスマートフォンなしには我々の生活って成り立たなくなっていますよね。もちろん、これはデザインの力だけではありませんが、デザイナーがデザインをするという時、このデザインというのは非常に大きなインパクトをはらんでいるということです。

反対に、人類学は、観察をする際にはなるべく介入しないようにします。エスノグラフィーも人類学者がその場にいるというだけで観察には影響を与えてしまうので、介入をゼロにはできませんが、なるべく与えないで現在を書き留めようとします。

二つ目については、今日のテーマがデザイン人類学の文脈だったので、デザインと人類学を主に話してきました。このCFIのプロジェクト自体は様々な分野の協業プロジェクトだと理解しています。トランスディシプリンという、それぞれの領域で抱えている知識などを超えて、どういうふうに何事かを生み出せるかという対話をされていると思っています。

学際研究の重要性は、かなり古くから言われていました。私が大学院に入った90年代後半も、学際研究の重要性は説かれながら、なかなかうまくいかない実情もあった。その理由のひとつとして言われていたのは、、自分の専門外に対して遠慮してしまって、この問題に関しては〇〇先生がご専門だから、という感じになってしまうという問題(たとえば、森岡正博さんなどがこうした問題を指摘していました)。また、産学連携の取り組みもありますけれども、基本的に全然違うディシプリンの人たちが知恵を絞って最初から最後まで何かを一緒におこなうということは起こりにくかったと思います。それを超えて協業の仕組みをつくり実践していくにあたって、デザインと人類学という全然ベクトルが違っているものを持ち寄ってやっているデザイン人類学の活動は、なんらかの参照軸を示すことができるし、親和性があるのではないかなと思います。

いまを見つめてきた人類学なら未来を描ける

参加者:私はシステム設計の仕事をやっていて、ソフトウェアに限らず、業務設計も設計内容に含みます。そして、“as is”を定義するプロセスと、“to be”を定義するプロセスの2つがあって、人類学者を雇っていた時に、前者が人類学者が得意で、後者がデザイナーが得意だと感じました。中村先生はどう考えられますか?

中村:多くの人類学者がやっている仕事そのものが“as is”に関わっていると思います。そういう意味では、得意だと言ってもいいかもしれませんね。ただ、人類学者たちが未来を志向していないのかというと、そういうことでもなくて、そこが結構もどかしいところなんですよね。

この20年くらいの潮流で、人類学も非常に大きく変わってきているんですけれども、特に注目されている運動の一つは、ありえたかもしれない可能性を描くという人類学のあり方なんですね。今までのエスノグラフィーの仕事というのは、基本的には「今こうである」というのを書いて定義してきました。厳密には書いたそばから「こうであった」という過去になってしまうんですけれどもね。ですが、「こうである」を定義できるということは、他でもあり得た可能性を詳細に見られるということなんですよ。一概には言えないかもしれませんが、今までは未来のビジョンを描くのはデザイナーが得意とする仕事でしたが、おそらく未来に向けてのデザイン人類学のプロジェクトは、これを逆にするということです。デザイナーはある程度デスクトップリサーチをすれば、未来のビジョンを作ることができるし、それなりに綺麗な絵を描いて、クライアントも満足すると思います。しかし、そうではない領域を切り拓こうと思うと、デザイナーが得意とする領域は残しつつも、過去に遡っていくベクトルはデザイナーに、過去の蓄積をもとに未来の方向へ引っ張っていくのは人類学者に、というようにして一緒にやらせたらどうかなと考えているんです。それがデザイン人類学の挑戦だと思っています。

「リフレーミング」の価値を伝えていくには

参加者:僕は今日話題に挙がった「リフレーミング」のようなことを自分の研究でもなんとなく考えているんです。具体的には「アバターの死」ということを考えていて、大雑把に言うと、VR上でアバターを用いる経験が、どんどん現実の自分と自己同一化していく中で、アバターを何かしらの外的要因で失った時に、それは死と言えるのか? というようなことです。この研究を進める中で、「死」というものの定義が変わっていくのではないか、あるいは変えなければ今後議論が進められないのではないか、という部分を自分の中では持っているのですが、それを人に発表するタイミングで、コアのメッセージがうまく言語化できなかったり、なかなか伝わらなかったりします。自分の言語化が上手くいっていないことが大きいとは思うのですが、死あるいは人間というものの定義が今後どうリフレーミングされていくのかを考えるとしたら、どういうふうにその重要性が語られていくのがが気になりました。

中村:ありがとうございます。重要性というのは、VR空間上の死のようなものを考えていく上でのリフレーミングの重要性ということですか? それとももう少し上のレイヤーの話で、そもそもの概念を再定義することの重要性を語るときに、どういう語り方をしているのか、ということですか?

参加者:後者です。

中村:すごく良い質問ですね。まさにこの1年くらい取り組んでいる課題で、人文的なものの考え方、ヒューマニティーズに蓄積しているような知見を、もう少しちゃんと活かせるんじゃないかなというふうに思っています。先行事例で言うと、デンマークに拠点があるブティックコンサルティングファームのReD Associatesは、非常にリフレーミングを活かしている事例だと思います。そこが受ける案件とリサーチの走らせ方というのは、長期のリサーチ期間をもらって、いわゆるデザイン思考とは違ったアプローチをするというものです。例えば、レゴの案件では、レゴの訴求がビデオゲームに乗っ取られて、ほとんど売れなくなっているという業績をなんとかしてほしいという依頼に対し、それをマーケティングでの解決あるいは顧客への満足を与えるということでもなく、遊ぶということの本質を見極めて、再定義していくというやり方を導入するんですね。その結果、売り上げにも反映されて良くなっていく。

短期決戦で、3ヶ月でリフレーミングしてみてくださいという時には価値を出すのは難しいです。マーケティングリサーチがn=100のようなサンプル数を集めて1回インタビューするのに対して、私が一緒に共同研究している人の言葉を借りると、人類学はn=1の調査を100回繰り返す。これは見事な表現で、フィールドリサーチでも長期間継続して住み込めない場合は、複数回同じ場所へ訪問して、同じ人たちに会いに行くんですよね。季節を変えて同じ人に会って話を聞くみたいに。それを体験された方は誰もが納得するんですが、3回目で関係性が変わって、初めて聞ける話が出てくるんです。それをやっていない人にいかに伝えていくのかというのは非常に重要で、コ・フィールドワークと言うんですけれども、フィールドに一緒についてきてもらって、実際に体験してもらうことまでできると、説得力が出てくるんですよね。ですがこれはすごいチャレンジングなことで、何度も悔しい思いをしました。

筧康明(以下、筧):オンラインから、人類学者とデザイナー、あるいはエンジニアが協業した成功例、あるいは面白い事例にはどのようなものがありますか?という質問が来ています。

中村:ありがとうございます。有名な例で言うと、インテルの人類学者・ジェネヴィヴ・ベルさんや、『Anthro Vision(アンソロ・ビジョン)』を書いているジリアン・テッドさんらが、誰でもアクセスできる事例をたくさん紹介しています。日本ではまだあまり事例が出てきていなくて、これからかなと思います。海外だと、90年代ぐらいから最近まで、グーグルやマイクロソフトなどのテックカンパニーがこぞって人類学者を採用して、主にはUXなどについて、リサーチ段階でものを考えるという動きがあります。

他には、AIなどの新しい技術が出てきて、人間の再定義・リフレーミングをしなければいけない時期に来ていると思うんですが、そういう時が人類学者の出番かもしれませんね。こちらもスマホがいい例かもしれませんが、私たちとテクノロジーというのは実は切り離すことができないものです。人類学者の中に「スマホ人間」という表し方をしている人がいますが、スマホを持った後の人間と持つ前の人間というのは、比べようがないくらいに変わっている(cf. 久保明教『機械カニバリズム――人間なきあとの人類学へ』講談社、2018)。スマホを文字に置き換えてもらうとピンと来る人もいるかもしれません。文字も当初は新しいテクノロジーでした。ソクラテスは最後まで抵抗して、こんなものを持ってしまったら、記憶の能力が失われてしまうと言って文字を書かなかった。でもプラトンが文字で書き留めたので、私たちはそれを読むことができるんですけれども。そのように、新しい技術には必ず両極端の意見が出てくると思います。しかし、今ではもはや人間は、文字をテクノロジーだとは見なしてないと思うんですね。つまり「文字人間」になっているということです(もちろん全人類ではありませんが)。そういう意味では、私たち文字人間は既に文字と共存・共生していて、ある種、文字を通じてしかものを見ることができなくなっているんです。地図を手にした人間が、地図を通してしか地形を見ることができなくなるのと同じように、人間の脳に埋め込まれるくらいの鋭いインパクトを文字は持つ。それと同じようなことが、スマホの登場でも起きたということです。AIなどの技術は特に新しいものなので、まさに今、人間が再定義されていくモーメントに我々は立ち会っていて、だからこそ倫理的な課題を扱い、たとえ面倒でも、様々な角度からの考えを検討し、議論したほうがよい時期です。

他に私が面白いチャレンジになると思っているのは公園を作ることですね。遊びに関するものに、人類学者が入ったら良いのではないかと思っています。「遊びとは一体何なのか」というのは奥深い問いで、哲学者たち、経済学者たちも様々に応答してきていますけれども、21世紀、2024年における遊びが、一体どういうふうにアップデートされていて、今後10年の遊びはどうなっていくのか、と未来洞察も含んだ形で公園やエンターテインメント空間を設計してみるというのは、相当面白いプロジェクトになるんじゃないかという気がします。

日本でいうと、宮本常一さんという民俗学者がいて、古くから全国の地域へ出かけて歩いて、色々なアドバイスをしたり、政策にも関わったりした方です。今は批判も出てきていますが、離島振興法を通じて橋がかかったり、港湾整備ができるようになったりしたのは宮本さんの尽力です。そういう意味では「地域コンサル」と称してもいいのではないでしょうか。彼をデザイン人類学者と呼ぶ人はほとんどいないと思いますけれども、土着の日本の中にあった、デザイン人類学のプロトタイプになりうると私は考えています。

:ありがとうございます。僕もまだまだ聞きたいことがいっぱいあるのですが、本日の中村先生のレクチャー&ワークショップはここまでとさせていただきたいと思います。

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